映画を100本以上観たのに凡庸な人間
大学生の頃、読書を一心不乱にしていた時期がある。
古典、ラノベ、新書、、、、読書経験が少なかった自分にとってはどれもが新鮮だった。面白い作品に巡り合ったときは心臓がバクバクして眠れず、夜中の街を歩いていたりしていた。そういう読書体験を経るたびに、「俺の感性はまた一つ磨かれた」とほくそ笑んでいた。良い作品の体験が良い自分を作ると信じていたし、それが鋭い感性を持った己を作ってくれると思っていた。読書をすることで自分は高みに上って行っていると感じていたのだ。
そんな時期のある日、俺は大学の授業を受けていた。その授業は非常に退屈な授業で、誰もが内職をするか、寝るか、早弁をするかを選択しており、真面目に聞いている人などいなかった。
授業の講師は、その状況を変えるために雑談で気を惹こうと思ったのか、昔話を始めた。
「私は大学生の頃、映画マニアだったんですよ。毎日のように映画に通っていたし、見た映画の数は100本を優に超えていました。それでですね。。」
何気ない話なんだけど、俺は衝撃を受けた。
「え? あなたは大量に映画を見てたはずなのにそんなに凡庸な人間になっちゃったの?」と。
杓子定規な話、凡庸な言葉選び、スリリングさのかけらもない授業内容。凡庸な人間。
えええ。数多くの名作に触れてきたはずですよね? 時に涙をし、時には拳を握り、時には価値観を揺さぶられ。あなたの中にある、タランティーノや黒澤明を見た体験はどこに?? このつまらない授業をしている自分と映画体験とのギャップを感じないの??
小説や映画や音楽などの創作物が人を磨くという価値観を強く持った自分には、大量の名作を浴びても凡庸なままだった彼が不思議でならなかった。
俺はこんな奴みたいにはなりたくねえなと思って、嘲笑してその講師のことを考えるのを辞めた。
ってな話が昔あって、特にオチも何もないんだけど。当時の未熟な俺が感じたことなんで、そこはあしからずって感じで。
創作物が人を磨くっていう価値観は、今もわりと信じている部分はある(この話を深堀し始めるともう1記事始まる。)。
でも、結局凡庸の塊みたいに育った自分を思えば、あの講師を笑うことはできず。
磨くという価値観が誤っていたのか、磨いた結果ただの石ころができあがったのか。どうなんでしょう、みなさん。
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